県人会という言葉が用いられだしたのは、鹿児島県人会の発足以来であろう。それくらい鹿児島県人会の歴史は古く、また永い伝統をもっております。異郷の地において、それぞれの意志のもとにいろんな分野で活躍していた県人出身者が、最初は二人、つぎは三人というぐあいに、また時には何千何万という人々が集まってきました。そして、近畿にある多くのこのような各県人会の総まとめの役割を担っているのが近畿鹿児島県人会なのです。
明治維新に際しては、御存じのように多くの鹿児島県の先輩たちがその推進役を果たしましたが、このこともあってこの近畿にも多くの県人出身者が在住するようになりました。維新直後は役人、所謂官界に進出している県人が多くいましたが、その後日本が工業国家として、ことにこの近畿において鉱工業、紡績工業が盛んになるにつれてこの方面に進出する県人も多くなりました。
このようにして近畿に在住するようになった人の数は明治、大正、昭和時代を通して数百万人にも及ぶでしょう。現に近畿には約百万の県出身者、或は県人二世、三世の人々が在住在勤していて近畿鹿児島県人会に集まっています。
同じ邑の出身者が時々集まり、故郷を偲び懐かしがるという会合がお互いを力づけあい切磋琢磨しようと続出、群生したのが近畿における県人会の起こりでしょう。もちろん出身地を同じくする人々の同郷會だけでなく、学校で共に学んだ人々の同窓会、職場で共に働く人々の職場県人会、同じ地域に住む人々の各地区県人会、同じ趣味を持った人々の県人会などとその会も多種多様であります。しかしこれらを貫く根本精神には一致するものがあります。それは先達は後進の面倒をみる、後進は先達を敬うという鹿児島に特徴的な良習が生きていることです。
近畿鹿児島県人会は、昭和30年頃に県人の長老、先達を中心に功成り、財を、名を挙げた数十人の会合として発足しました。最初は年に、二、三回会食しながら懐旧談に過ごすというものでしたが34年に大々的な発展を期して会旗を制定、近畿鹿児島県人会第一回総会を武庫川河畔で開催したのでした。第一回総会は大運動会をも併せていましたので陸上競技、相撲などに県人三万人が集まり白熱したものでした。
爾来、毎年勤労青少年の育成、激励を会運営の基本方針として大会を開いて数千ときには一万人以上の人が集まってきました。また優良従業員の表彰なども行い産業関係への貢献を図っております。そのほか、慰安会等を催しそれに有名歌手を招いて県人の慰労にも努力して今日に到っています。
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